1999年北京、Hang On The Boxのライブ。(Photo: James Bollon)
1999年、初ライブから6ヵ月後、中国のガールズ・パンクバンド、Hang On The Box(ハング・オン・ザ・ボックス)はアメリカの『ニューズウィーク』ローカル版の表紙を飾り、世界中の音楽ファンを驚かせました。これは彼らの母国である中国、特に北京において、欧米のメディアではほとんど取り上げられることのなかった活気あるシーンにスポットライトを当てた重要な瞬間でした。
ロックンロールは80年代半ば、鄧小平首相のもとで他国からのさまざまな影響を受け入れ始めた中国に衝撃を与えました。しかし、90年代の初めにはカントポップ(広東語ポップス)が電波を席巻し、ロックンロールは存亡の危機に瀕していました。とはいえ、首都北京の北京ダックレストランや胡同(フートン)の路地裏では、新しい世代が香港からの海賊版CDやテープでロックンロールの知識を急速に学び始めていました。
カラオケパーラーや伝説の<Scream Club>のようなバーは、駆け出しのアーティストたちに演奏の場を提供するようになりました(<Scream Club>はのちにレコードレーベルとなる)。やがて、1999年に『ガーディアン』紙が報じたように「トゲトゲの赤い髪にボンデージパンツ」をはいた「コンクリートジャングルに住むだらしない格好の浮浪児」たちのグループが、中古のエレキギターで大きな音を立て始めるようになりました。
パンクは90年代に北京のアンダーグラウンドから生まれ、<
伝説のScream ClubでのGia Wang。(Photo: James Bollon)
北京のシーンは男性中心であり、Anarchy Boys(アナーキー・ボーイズ)のようなバンドが欧米のパンクスタイルを受け継いでいました。彼らはMarshallのアンプを武器に、暴動的なライブを行い、「Chinese Oi! Oi! Oi! No RACIST」という言葉がスリーブに書かれたデモテープを売りさばきました。しかし、北京の一時的なパンクの中心地であった<Scream Club>は、同じく初のガールズバンドのCobra(コブラ)やHang On The Box(ハング・オン・ザ・ボックス)にも活動の場を与えました。
男性中心のシーンの中で、女性だけのバンドがアメリカの大手出版社の表紙を飾ったのです。これは画期的な出来事となりました。
1998年、<Scream Club>でのHang On The Boxのライブ。(Photo: James Bollon)
『ニューズウィーク』誌の表紙を飾ったことは、それまで地元のシーンで嘲笑にさらされていた彼女たち10代の若者グループにとって激震的な出来事となりました。しかし、中国国内でバンドが完全に受け入れることはありませんでしたが(カルト的な人気にもかかわらず、彼女たちは自国でのライブ活動に苦労しました)、ハング・オン・ザ・ボックスは中国国内での女性ロッカーに対する態度を変えるきっかけとなったのです。2007年にアルバム『No More Nice Girls』をリリースした頃には、ますます多くの中国のバンドが女性をメンバーに迎え入れるようになり、そうやってXiao Wang(シャオワン)のようなライオット・ガールのバンドが現在のシーンでも注目されるようになりました。
Hang On The Boxのボーカル、Gia Wang。
ハング・オン・ザ・ボックスはまた、中国人アーティストに海外でのチャンスを与え、そうすることで中国の音楽シーンに関心が集まるきっかけをつくりました。彼女たちは<Scream Club>の仲間であるBrain Failure(ブレイン・フェイラー)とともに、アメリカのSXSW音楽祭で演奏した最初の中国人アーティストであり、これによって2つの異なる音楽文化の間で新たな交流が生まれました。彼らの後を追うように、北京ポップフェスティバルのようなイベントでは、New York Dolls(ニューヨーク・ドールズ)やRamones(ラモーンズ)のMarky Ramone(マーキー・ラモーン)のようなパンクの先駆者たちを中国に招き、地元のホットな才能を持つアーティストたちと共演させる機会を生み出しました。この東洋と西洋の重要な音楽交流は、今日に至るまで続いています。
駆け出しのアーティストたちがライブをする場所であった<Scream Club>。